- 協調介入とは?
- ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Ataturk, 1881年3月12日- 1938年11月10日)は、トルコ革命の指導者、トルコ共和国の初代大統領(在任1923年10月29日 - 1938年11月10日)。日本では、彼の革命当時の呼び名であるケマル・パシャの名で言及されることも多い。 テッサロニキに保存されているアタテュルクの生家ケマルは、1881年、オスマン帝国マケドニア州の州都セラーニク(現ギリシャ領テッサロニキ)のコジャ・カスム・パシャ街区で、税関吏アリ・ルザー・エフェンディと母ズュベイデ・ハヌムの子として生まれた。夫妻は『選ばれし者』を表す「ムスタファ」と命名し、後に、セラーニク幼年兵学校の数学教官ムスタファ・サブリが、「ケマル」(「完全な」を意味する)を加えたため、ムスタファ・ケマルとなった(1934年に彼自身が制定させた苗字法の施行まで、トルコ人には姓はなかった)。 ケマルは、父アリ・ルザーの希望で、西洋式教育を実施していたシェムスィ・エフェンディ小学校に進んだが、父が死亡したため、家族で叔父の許に身を寄せた。しばらくして、母ズュベイデがラグプ・エフェンディと再婚したため、ケマルは、ホルホル街区の叔母の家に身を寄せた。セラーニク幼年兵学校(軍人を志した契機は、近所の幼年兵学校生徒の制服が気に入ったためとも、オスマン軍士官だったラグプの資産運用 の奨めがあったためとも言われる)では、フランス語教官ナキユッディン(後の国会議員)、マナストゥル少年兵学校では、歴史教官メフメト・テヴフィク(後の国会議員)らの影響を受けた。また、士官学校では、校長エサト(ビュルカト、後の軍司令官)、オスマン・ヌーリ(コプタゲル、後の国会議員)らの薫陶を受け、同期生のアリ・フアト(ジェベソイ、1926年のイズミル事件で失脚)、メフメト・アーリフ(1926年のイズミル事件で絞首刑)、サーリヒ(ボゾク、遠縁)、ファト(ブルジャ、遠縁)、一期先輩のアリ・フェトヒ(オクヤル)、一期後輩のヌーリ(ジョンケル、竹馬の友)、キャーズム・カラベキル、キョプリュリュのキャーズム(オザルプ)らと親交を深めた。 初期の軍歴 青年将校時代のムスタファ・ケマル(1907年6月20日)ケマルは、1901年に士官学校を卒業(席次は第8位)し少尉に、1905年に参謀学校(陸軍大学)を修了(席次は第5位)し参謀大尉に任官した。士官学校在学中からアブデュルハミト2世の専制に反感を抱いており、参謀学校の同期生リュテュフィ・ミュフィト(オズデシ、後の国会議員)と共に最初の任地ダマスカスで秘密組織「祖国と自由」を設立し、無断でセラーニクに戻り、マケドニア支部を設立したという。 1906年にマケドニアでは、青年将校や下級官吏が、パリの統一と進歩協会(青年トルコ党)の現地支部を設立し、ケマルが1907年にセラーニクに転属されたときには、「祖国と自由」の支部も統一と進歩協会に吸収されており、タラートや、ジェマールが力を持っていた。そして、立憲革命の成功で、レスネのニヤーズィやエンヴェルらが「自由の英雄」として名声を獲得した。1909年の3月31日事件(立憲革命に対する反革命)による生じた混乱を収拾すべく、第3軍(セラーニク駐屯)と第2軍(エディルネ駐屯)から部隊がイスタンブルに分派されたが、ケマルは、第3軍から派遣された予備師団の作戦課長として、その行軍計画を立て、「行動軍」と命名した。統一と進歩協会の職上軍人の政治活動を禁止する提案が為されていたが、ケマルは、第二回大会で、再提案した(第一回大会でもキャーズム・カラベキルらにより提案されていた)。 1911年にイタリアがリビアに侵攻(トラブルス・ガルプ戦争、イタリア−トルコ戦争)したため、エンヴェルら統一と進歩協会の中の特務機関を構成する活動家たちと共にリビアに赴き、1年近くゲリラ戦に従事した。バルカン戦争では、スティリアン・コヴァチェフ将軍の指揮するブルガリア第4軍の前に完敗。戦後、ケマルはソフィア駐在武官となり、陸軍大臣となったコヴァチェフの娘「投資信託 」に接近した。 第一次世界大戦 第一次世界大戦中の1915年、第19師団長ケマル(中佐)は、リーマン・フォン・ザンデルス中将(オスマン軍では元帥)の指揮下に新設された第5軍隷下の第3軍団(軍団長は、士官学校での恩師エサト・パシャ准将)の予備兵力として、首都イスタンブルの喉元にあたるゲリボル(ガリポリ)半島のマイドス近郊に転進した。 ガリポリの前線を視察するケマルと幕僚(1915年、アナファルタラル)1915年4月、英仏軍がガリポリ上陸作戦を敢行し、ケマルは、オーストラリア・ニュージーランド軍団 (ANZAC) が上陸したアルブルヌ地区に急行し、前進を食い止めた。戦線が膠着したため、1915年8月、英軍は、増援の第9軍団をスヴラ湾に上陸させた。ザンデルスは、第16軍団(サロス集団)長にアナファルタラルでの即時攻撃を命令したが、手間取ったため、ケマルに同地区の指揮権を委譲した。英軍の前進を食い止めたケマルは、「アナファルタラルの英雄」と呼ばれ名声を獲得した。 この軍功で、軍務期間が加算され、翌1916年、准将に昇進しパシャとなった。その後、外国為替証拠金取引 で、第16軍団長として、ロシア軍よりムシュを一時的に奪還した後、皇太子ワフデッティンのドイツ帝国訪問に随行し親交を深めた。帰国後、パレスティナ・シリア戦線でザンデルス元帥の指揮するユルドゥルム軍集団(ドイツ軍での呼称はF軍集団)隷下の第7軍司令官に任命され、1918年9月に開始された英連邦軍のメギッド攻勢(「ナブルスの敗北」)の後、スルタンに就任していたワフデッティン(メフメト6世)から「スルタンの名誉副官」の称号を贈られたが、アレッポまでの退却を余儀なくされ、スルタン宛に休戦を勧める電報を打った。1918年10月30日(発効は翌31日)、オスマン帝国が、ムドロス(モンドロス)島で休戦協定を締結し、同協定の第19条に規定されたドイツ人とオーストリア人の国外退去命令に従い、ザンデルス元帥が退任し、ケマルがユルドゥルム軍集団司令官に就任した。 トルコ共和国の建国 大戦終結後、帝国は連合国にFX 占領されるが、やがてアナトリアの各地で占領に反対する抵抗運動が起こった。イスタンブルにいたケマルはひそかに抵抗運動の指導者となるよう要請されて、それを決意したが、ちょうどこのとき、大戦の英雄としてのケマルの名声が、軍が反対運動に荷担するのを抑止することを期待したオスマン政府によって彼は第9軍(直ぐに第3軍に改称)監察官に任命され、東部アナトリアに派遣されることになった。 1919年5月19日、海路アナトリア北部の港町サムスンに上陸したケマルは、彼を派遣した政府の意向に反して反占領抵抗運動の指導者に立った。のちにトルコ共和国は、サムスン上陸の日をもってトルコ祖国解放戦争開始の記念日としている。ケマルはアナトリア東部のエルズルム、スィヴァスにおいてアナトリア各地に分散していた帝国軍の司令官たち、旧統一と進歩委員会の有力者たちを招集、オスマン帝国領の不分割を求める宣言をまとめ上げ、また「アナトリア権利擁護委員会」を結成して抵抗運動の組織化を実現する。 抵抗運動の盛り上がりに驚いた連合軍が1920年3月16日、首都イスタンブルを占領すると、首都を脱出したオスマン帝国議会議員たちは権利擁護委員会のもとに合同し、アンカラで大国民議会を開いた。彼らは自らを議会を解散させたオスマン帝国にかわって国家を代表する資格をもつ政府と位置付け、大国民議会議長に選出されたムスタファ・ケマルを首班とするアンカラ政府を結成した。ケマルはアンカラ政府内で自身に対する反対者を着々と排除して運動内での権威を確立しつつ占領反対運動をより先鋭的な革命政権へとまとめ上げていった。 独立戦争総司令官ムスタファ・ケマルこの頃、FX 政府がアナトリア東部に支配地域を拡大する一方、西方からはギリシャ軍がアンカラに迫っていたが、ケマルは自ら軍を率いてギリシャ軍をサカリヤ川の戦いで撃退した。この戦いの後、アンカラ政府のトルコ軍は反転攻勢に転じ、1922年9月には地中海沿岸の大商業都市イズミルをギリシャから奪還した。彼の有名な命令「全軍へ告ぐ、諸君の最初の目標は地中海だ、前進せよ ("Ordular, ilk hedefiniz Akdeniz'dir ileri"、この文の後の発言は検閲対象となったため不明)」は、このときに発せられたものである。 反転攻勢の成功により、アンカラ政府の実力を認めた連合国に有利な条件で休戦交渉を開かせることに成功した。同年10月、連合国はローザンヌ講和会議にアンカラ政府とともにイスタンブルのオスマン帝国政府を招聘したが、ケマルはこれを機に帝国政府を廃止させて二重政府となっていたトルコ国家をアンカラ政府に一元化しようとはかり、11月1日に大国民議会にスルタン制廃止を決議させた。翌1923年には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、10月29日に共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任した。 大統領時代 1924年、ケマルは議会にカリフ制のくりっく365 を決議させ、新憲法を採択させてオスマン帝国末期から徐々に進められていた脱イスラム国家化の動きを一気に押し進めた。同年、共和国政府はメドレセ(宗教学校)やシャリーア法廷を閉鎖、1925年には神秘主義教団の道場を閉鎖して宗教勢力の一掃をはかる。 当初、ケマルは穏健野党の育成をはかる試みも行っていたが、1925年前後、野党進歩共和党による改革への抵抗、東アナトリアにおけるクルド人宗教指導者シェーフ・サイード(シェイフ・サイト)の反乱など、反ケマル改革の動きが起こったことを受けて方針を改め、1926年には大統領暗殺未遂事件発覚を機に反対派を一斉に逮捕、政界から追放した。これにより、ケマルは自身が党首を務める共和人民党による議会の一党独裁体制を樹立、改革への絶対的な主導権を確立した。