- 財務大臣の権限とは?
- これ以降、独裁的な指導力を握ったケマルは、大胆な欧化政策を断行した。1928年、憲法からイスラムを国教と定める条文を削除し、トルコ語の表記についてもイスラムと結びつきやすいアラビア文字を廃止してラテン文字に改める文字改革を断行するなど、政治、社会、文化の改革を押し進めた。経済面では世界恐慌後はソビエト連邦に範を取った計画経済を導入する。 また、男性の帽子で宗教的とみなされていたターバンやトルコ帽(フェズ)は着用を禁止(女性のヴェール着用は禁じられなかったが、極めて好ましくないものとされた)され、スイス民法をほとんど直訳した新民法が採用されるなど、国民の私生活の西欧化も進められた。1934年には創姓法が施行されて、西欧諸国にならって国民全員が姓を持つよう義務付けられた。「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクは、このときケマルに対して大国民議会から贈られた姓である。 1938年11月10日、イスタンブル滞在中、執務室のあったドルマバフチェ宮殿で死亡した。死因は肝硬変と診断され、激務と過度の飲酒が原因とされている。アタテュルクは、生前、医者に「ラク(トルコの蒸留酒)が死因でないと診断せよ」と言い残したという。 ケマルが死に至るまで一党独裁制のもとで強力な大統領として君臨したが、彼自身は一党独裁制の限界を理解しており、将来的に多党制へと軟着陸することを望んでいたとされる。また、彼の死後には次節で述べるようにケマルの神格化が進むが、生前の彼は個人崇拝を嫌っていたという。 アタテュルク主義 アンタルヤにあるアタテュルク像。トルコ国内に無数にあるアタテュルク像の中でも個人崇拝が甚だしい一例ケマル・アタテュルクは、世俗主義、民族主義、共和主義などを柱とするトルコ共和国の基本路線を敷いた。一党独裁を築き上げ、反対派を徹底的に排除して強硬に改革を推進したアタテュルクと、その後継者となったイスメト・イノニュの政治姿勢は、戦間期のヨーロッパ諸国の指導者にみられる権威主義と共通する部分が多い。しかし、他国の独裁政権と比較すれば、アタテュルクとイノニュは、政変なく政権を守り通すことができたし、巧みな外交政策により第二次世界大戦に至る動乱の渦中にあって中立を押し通すことにも成功した。結果として、トルコは独裁政権下にありながら全体として国家の安定に成功した例となり、「成功した(正しい)独裁者」ケマルはその死後も現在に至るまで国父としてトルコ国民の深い敬愛を受けつづけている。救国の英雄、近代国家の樹立者としてのケマル評価はトルコではあたりまえのものになっている。 ケマルがトルコ革命の一連の改革において示したトルコ共和国の政治路線は「ケマル主義」「アタテュルク主義」と呼ばれ、ケマルに対する個人崇拝と結びついて現代トルコの政治思想における重要な潮流となっている。もっとも、ケマル主義の信奉者を主張する人々の中には左派的・脱イスラム的な世俗主義知識人からきわめて右派的・イスラム擁護的な保守主義者、民族主義者まで様々な主張があり、実際にはケマル主義の名のもとに多様な主義主張が語られているのが現実ではある。 彼ら「ケマル主義」の擁護者たちの中でも、トルコ政治の重要な担い手の一部である軍部の上層部は、「ケマル主義」「アタテュルク主義」を堅持することはトルコ共和国の不可侵の基本原理であるという考え方をしばしば外部に示してきた。1960年と1980年の二度に渡る軍部の武力政変も政治家のケマル主義からの逸脱是正、あるいはケマル主義の擁護を名目として実行されている。 アンカラにあるアタテュルク廟(アヌト・カビール)ケマルの墓は、アンカラ市内の丘陵上に建設されたアタテュルク廟にあり、毎日内外から多くの参拝者が訪れる、国家の重要な建造物になっている。毎年彼の命日には、アタテュルク廟ほかトルコ全土で黙祷など記念式典が行われる。 また、イスタンブルには彼にちなんで名づけられた空港(アタテュルク国際空港)、エルズルムには大学(アタテュルク大学)がある。トルコ全土の町々では、主要な通りにアタテュルクにちなんだ名前がつけられ、町の中心的な広場にはアタテュルクの銅像が立ち、役所や学校にはアタテュルクの肖像画が掲げられている。トルコ共和国の通貨である新トルコリラ(略称YTL)は、全ての紙幣にアタテュルクの肖像が刻印、印刷されている。さらに、「アタテュルク擁護法」という法律も存在し、公の場でアタテュルクを侮辱する者に対して罰則が加えられることもある。 トルコにおけるこうした徹底的なケマルの顕彰に対しては、トルコの国内においても、世俗的な立場にある人々の間からも、「行き過ぎた神格化」であり「政教分離」に違反するのではという疑義を示す声もあるほどである。少なからぬ観察者は、トルコの国家体制護持とケマルに対する個人崇拝は密接に関係していると考えている。例えばイスラム的な価値観と国家体制との関係で見ると、1980年武力政変以前は、徹底的な政教分離主義はケマル主義の名のもとに国家体制と不可分のものとされていたし、体制によって民族主義とイスラムの調和がはかられ始めた1980年代以降は、体制にとって許容可能な「望ましいイスラム」がアタテュルクの望んだイスラムのあり方であるとして正統化をはかる事例がみられるようになった。 イスラム原理主義者による批判 アタテュルクが酒を好んだこと、数々のイスラム保守派への抑圧などからイスラム原理主義者の中にはアタテュルクをカーフィル (トルコ訛:キャーフィル)と非難する者も存在している。 家族 ケマルと妻ラティーフェ1923年1月29日、外為 の豪商ウシャキザーデ家の娘ラーティフェと結婚。 (1924年9月〜10月の東部訪問で離婚危機、1925年8月5日に離婚が発表された) 母ズュベイデの再婚相手である、ラグプの親戚フィクリイェとアンカラ駅の官邸で同棲していた。 (イマーム婚をあげていたという説もある。チャンカヤ官邸前で拳銃自殺を図り、1週間後、ヌムーネ病院で死亡。弾痕が背中にあったため、他殺説もある) 養女:アフェト・イナン(歴史家)、ネビレ、フィクリイェ、ルキイェ・エルキン、ゼフラ・アイリン(1936年、フランスのアミアン近郊で列車から転落して死亡、事故とも自殺とも言われている)、サビハ・ギョクチェン(世界初の女性軍用機操縦士)、ユルキュ・ドーアンチャイ(再婚後の姓はアダテペ、ズュベイデの養女ヴァスフィエの娘) 養子:アブドゥルラーヒム・トゥンジョク(孤児→技師、顔がケマルに酷似。ズュベイデは、遺言でアブドゥルラーヒムにも遺産を遺した)、スールトマチ・ムスタファ(牧童→クレリ少年兵学校→軍人)、イフサン。 但し、サビハ・ギョクチェンはFX だけで、養子はいなかったと主張していた。 Михаил Николаевич Тухачевский, 1893年2月16日 - 1937年6月11日)はソビエト連邦の軍人。ソ連邦元帥。 赤軍の機械化を推進。数々の画期的戦術理論を編みだし、赤軍の至宝、あるいは赤いナポレオンと呼ばれた。とりわけ彼の「縦深戦術理論」はその後の軍事理論に大きな影響を与えた。スターリンの赤軍大粛清の犠牲者の1人。 帝政ロシアの没落貴族の息子としてアレクサンドロフスコエに生まれた。FX 取引 まもなくトゥハチェフスキー家は経済的困窮のためモスクワ南東ヴォルガ川流域の都市ペンザへ移住し、ミハイルも同地の中学校に通った。 1909年にはFX へ引っ越し、陸軍幼年学校へ入学。幼年学校を首席で卒業した後、アレクサンドルの士官学校へ入る。1914年7月、ロシア帝国陸軍少尉に任官して、「近衛セミョーノフ連隊」に配属され、この直後にはじまった第一次世界大戦に従軍。最初の6ヶ月間で6個の勲章を授与される活躍をして大尉まで昇進したが、1915年2月にロムツァ郊外でドイツ軍の捕虜となる。その後、五度にわたる脱走の試みのすえ、1917年8月に成功。パリとロンドンをへて晩秋にロシアへ帰国したが、すでにロシア国内では2月革命で帝政は崩壊し、アレクサンドル・ケレンスキーによる臨時政府が誕生していた。さらにそれも10月革命でレーニンらボリシェヴィキに倒される。 こうした情勢の中、祖国の新しい権力に従うことを決めた外国為替 は、1918年4月にボリシェヴィキ党と赤軍に入る。まともな軍事教養を持たない農民などの被支配階級がほとんどの赤軍では元帝政軍人は重用され、トゥハチェフスキーも中将・軍司令官の待遇で迎え入れられた。1918年6月には第一革命軍司令官としてヴォルガ川流域まで破竹の勢いで侵攻してきたチェコスロヴァキア軍と戦い、9月にはシビルスクを占領してレーニンから賞賛された。1919年3月、シベリア政府(白軍)のコルチャーク軍の進攻があった際には主力である第五軍司令官を任せられ、見事にコルチャク軍を撃破。この功績で赤旗勲章を授与された。さらに1919年秋になると、今度はデニーキン将軍の軍勢が南方からモスクワに迫り、トゥハチェフスキーは南方方面軍司令官としてこれと相対し、優れた戦争指導で1920年3月までにデニーキン軍を総崩れにする。 しかしそれも束の間で1920年4月に今度は外為 軍(国境問題でロシアと対立していた)が内乱に付け込んでロシア領へ侵攻してくる。トゥハチェフスキーは西部方面軍司令官として参戦、「我々の銃剣で勤労人類に幸福と平和をもたらす。西欧へ」と世界革命の前哨戦と主張し兵士達を鼓舞しながら、この戦いもまたトゥハチェフスキー軍の活躍によりポーランド軍を敗退に追いやり6月には逆にロシア軍がポーランド領へと侵攻した。しかしこの時、トゥハチェフスキーは首都ワルシャワの攻略を試みて失敗。レーニンはこれを隣接の南西方面軍の協力がなかったためであるとし、その責任を南西方面軍軍事委員だったスターリン一人に押し付けたので(これによりスターリンは革命軍事会議議員を罷免される)、トゥハチェフスキーが罰せられることは無かった。しかしこれがスターリンのトゥハチェフスキーへの深い逆恨みの憎悪の発端となったという。その後、ポーランド軍はフランスの支援を受けて反転攻勢に転じ、トゥハチェフスキー率いるロシア軍は惨敗して命からがら帰国した。トゥハチェフスキー唯一の敗北の戦争であった(ポーランド・ソビエト戦争)。 1921年3月にはクロンシュタットで水兵の反乱、5月にはタンボフ州での3万人の農民蜂起などがあったが、いずれもトゥハチェフスキーがこれを鎮圧。1924年にはレーニンが死去し、スターリンがその後継としてFX 権力を掌握しはじめ、1925年にはスターリンの腹心のクリメント・ヴォロシーロフが陸海軍人民委員(のちの国防人民委員)になり、反スターリン的またはその見なされる将校たちが多数追放されはじめたが、内戦時代からの国家的英雄であるトゥハチェフスキーにはさすがのスターリンも手が出せず、1925年から1928年までの間、トゥハチェフスキーは赤軍参謀長に就任し、1931年からは陸海軍人民委員代理兼兵器局長に就任する。この間、赤軍再編成や機械化部隊・空挺部隊などの導入など、一貫して赤軍の機械化・近代化につとめ、その運用のための縦深作戦理論の確立に指導的役割を果たした。こうした功績により、1934年からは共産党中央委員会委員候補に選出され、1935年にはヴォロシーロフら4名とともにソ連赤軍最初の元帥の一人となった。しかしスターリンは相変わらずポーランド・ソビエト戦争のときの逆恨みを持ち続け、またトゥハチェフスキーがソ連軍に多大な功績を残して国内外からスターリンを差し置いて脚光を浴びるのを見るたびにスターリンは自尊心を傷つけられ、自分の独裁者としての地位さえも脅かしかねないと危機感を抱くようになっていく。