- カウンター・パーティーとは?
- トゥハチェフスキーはスターリンにとってもっとも不愉快な人物となり、ついにスターリンはその抹殺を目論むようになる。ナチス・ドイツの諜報機関SDの司令官ラインハルト・ハイドリヒも、独ソ戦があった場合もっとも強敵になるであろう名将トゥハチェフスキーを抹殺する絶好のチャンスを見逃さず、ドイツがトゥハチェフスキーと接触していたという文書を偽造させ、これをドイツからの攻撃を恐れて親ソになっていたチェコスロヴァキアのベネシュ大統領に怪しまれないように入手させ、モスクワのスターリンへ送らせたという。ただドイツ側がこうした行動に出るようにスターリンが仕向けたという説もあり、真相は定かではない。 いずれにせよスターリンはこれを口実にして、トゥハチェフスキーを1937年5月に逮捕。トハチェフスキーは尋問にかけられ、一説に調書が血の色で真っ赤に染まるほど激しく殴打されたと言われる拷問の末に自白を強要させられた。6月11日にヤキール一等軍司令官(キエフ軍管区司令官)・ウボレヴィッチ一等軍司令官(白ロシア軍管区司令官)・コルク二等軍司令官(フルンゼ陸軍大学校校長)・フェルトマン三等軍司令官(赤軍人事部長)・プリマコフ三等軍司令官(レニングラード軍管区副司令官)らと共に秘密軍法会議にかけて、即決で反逆罪により死刑判決を下し、判決のその日の内にモスクワのルビヤンカ刑務所で銃殺させた。トゥハチェフスキーの家族も「陰謀に加担した」と見なされ逮捕、強制収容所へ送られた。 以降、翌年までの間、いわゆる“赤軍大粛清”が吹き荒れて赤軍の旅団長以上の者の45%が殺され、赤軍は壊滅状態に達した。なおトゥハチェフスキー自身は、スターリンの死後、スターリン批判にともない名誉回復を受けた。 人物像 1935年、空挺部隊が参加した戦術演習を行い、ロシア空挺軍の生みの親とされる。また、ロケット兵器研究所の設立を積極的に支持した。ロシア内戦史と軍事理論の多くの著作を有する。 死刑判決間際にはスターリンを党と人民の敵として弾劾するなどの剛毅さをみせた。 悲劇の将軍として名高いが、1921年のクロンシュタットにおける水兵の反乱(ソビエト体制に対し、民主化を要求)に対して容赦のない攻撃を加えて鎮圧し、同年6月12日には、農民による反乱が起こっていたタンボフ州で毒ガス使用による反乱鎮圧を命令するというような冷酷さもあった。 作曲家のショスタコーヴィチと交友関係があった。 大粛清を生き延びたスターリンの側近モロトフがスターリンの死後語ったところによれば、「大粛清には多くの冤罪があったが、トハチェフスキーは冤罪ではない」という。「トハチェフスキー達がクーデターを実行する日まで我々は知っていた」と豪語している。一方でモロトフは「(トハチェフスキーの)気持ちはわかる。自分が逮捕されるのを恐れていたのだ」とも述べる。 石原 莞爾(いしわら かんじ[1]、1889年1月18日 (戸籍の上では17日)- 1949年8月15日)は、昭和の大日本帝国陸軍軍人、満州派の領袖。立命館大学講師(1941-42年)。 軍歴は関東軍作戦参謀、歩兵第四連隊(仙台)連隊長、参謀本部作戦課長、同第一部長、関東軍参謀副長兼駐満州国武官、舞鶴要塞司令官、第16師団長などを歴任し、最終階級は陸軍中将。 幼少年時代 1889年1月18日に山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩士、飯能警察署長の石原啓介とカネイの次男として生まれる。但し戸籍上は1月17日となっている。啓介とカネイは六男四女を儲け、石原は三男であるが長男の泉が生後二ヶ月で、次男の孫次が二週間で亡くなり、莞爾が事実上の長男である。四男の次郎は海軍中佐となるが1940年6月に航空機事故で殉職する[2]。五男の三郎は一歳で亡くなり、六男の六郎は戦後莞爾と共に行動して1976年まで西山農場で暮らす。長女の元は医者の家へ、二女の志んは軍人の家へ嫁ぎ、三女の豊は、四女の貞は24歳でなくなっている。 父親の転勤の為、転住を重ねている。幼年期は乱暴な性格であり、まだ小学生でなかった石原を姉が子守のため学校に連れて行った時には教室で大暴れして戸を叩きながら「破るぞ、破るぞ」と怒鳴り散らした。しかし利発な一面もあり、その学校の校長が石原に試験をやらせてみると一年生で一番の成績であり、また石原の三年生の頃の成績を見てみると読書や算数、作文の成績が優れていた[3]。また病弱でもあり、東北帝国大学付属病院に保管されていた石原の病歴を見てみると小児時代に麻疹にかかり種痘を何度か受けている[4]。石原は子供時代から近所の子供を集めて不用品回収 ごっこで遊び、小学生の友達と将来の夢について尋ねられると「陸軍大将になる」と言っていた[5]。 軍学校時代 1902年に仙台陸軍地方幼年学校に受験して合格し、入学した。ここで石原は総員51名の中で一番の成績を維持した。特にドイツ語、数学、国漢文などの学科の成績が良かった。一方で器械体操や剣術などの術科は不得意であった。 1905年には東京陸軍中央幼年学校に入学し、粗大ごみ 教練や武器の分解結合、乗馬練習などの教育訓練が施された。また中央幼年学校では地方幼年学校とは異なり暴力などの私的制裁が横行していたが、石原は学校の勉強だけでなく戦史や哲学などの書物をよく読んでいた。田中智学の法華経に関する本を読み始めたのもこの頃である。成績は仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。この上には横山勇、島本正一などがいる。また東京に在住していたため、乃木希典や佐藤鉄太郎に会っている。 1907年、陸軍士官学校に入学し、ここでも軍事学の勉強は教室と自習室で済ませ、休日は図書館に通って戦史や哲学、社会科学の自習や名士を訪問した。成績は区隊長への反抗や侮辱のため学科成績は350名の中で3位だったが、卒業成績は6位であった。 士官学校卒業後は原隊に復帰して整体師 士官の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。ここで軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、軍事学以外の哲学や歴史の勉学にも励んでいる。南部次郎よりアジア主義の薫陶を受けていたため、1911年の春川駐屯時には孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて共に「支那革命万歳」と叫んだと言う。 連隊長命令で不本意ながら陸軍大学校を受験することになった。受験科目はused truck 、used trucks 、used truck for sale 、used trucks for sale 、交通学、軍制学、語学、数学、歴史などであり、各科目三時間または三時間半で解答するというものであった。部隊長として勤務することを望んでいた石原は受験に対してもやる気がなく、試験準備に一心に打ち込むこともなく淡々と普段の部隊勤務をこなし、試験会場にも一切の参考書を持ってこず、どうせ受からないと試験期間中は全く勉強しなかった。しかし合格し、1915年に入学することになる。ここでは戦術学、戦略、軍事史などの教育を施されたが、独学してきた石原にとっては膨大な宿題も楽にこなし、残った時間を思想や宗教の勉強に充てていた。その戦術知能は高く、研究討論でも教官を言い負かすこともあった。そして1918年に陸軍大学校を次席で卒業した(30期)。卒業論文は北越戦争を作戦的に研究した論文(「長岡藩士・河井継之助」)であった。 在外武官時代 ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。ナポレオンやフリードリヒ大王らの伝記を読みあさった。また、日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者として知られる。1923年、国柱会が政治団体の立憲養正會を設立すると、国柱会の田中智學は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。そのころ田中智學には「人殺しをせざるをえない軍人を辞めたい」と述べたと言われる。 関東軍参謀時代 1928年に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画を立案する。1931年に板垣征四郎らと満州事変を実行、23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。石原が構想していたのは、今日「偽満」と呼ばれるような、偽装植民地などではなく、日本中国を父母とした独立国であった。そして日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと語った。石原が目指した満州国は「東洋のアメリカ」だったとも言われるが、実際は最終戦争に備えるための準備であり、それを実現するための民族協和だったのである。関東軍の役割は飽くまでソ連の南下を防ぐ為のもので、満州国の政治に携わっていることを厳しく非難していた。 二・二六事件の鎮圧 1936年の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、戒厳司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭にたった。この時の石原の態度について昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している[6]。この時、殆どの軍中枢部の将校は反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。安藤輝三大尉は部下に銃を構えさせて登庁を阻止しようとしたが、石原は逆に「陛下の軍隊を私するな! この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ参謀本部に入った。また、庁内においても、栗原安秀中尉にピストルを突きつけられるものの、事なきを得ている。 組織堅持や「穏便な」解決を望んだ軍上層部の多くの将官とは異なり、謀略により2万人近くの関東軍を動かし、満州全土を軍事制圧した石原にとって、「皇軍双撃」により犠牲者が出ることを恐れるようなことはなかった。むしろ、この機会を利用して軍備の近代化や物理的強化よりも精神的強化を図る皇道派勢力を一掃し、「世界最終戦論」における一過程としての対ソ連戦に備え、在満兵力の大規模な機械化、航空戦力強化計画を実現化しようとしたことが、本事件における石原のリーダーシップを生むことになったと考えられる。 左遷 1937年の日中戦争(支那事変)開始時には参謀本部作戦部長。参謀本部は当初戦線拡大に反対であり、対ソ戦に備えた満州での軍拡を目していた石原にとっても、中国戦線に大量の人員と物資が割かれることは看過しがたかった。内蒙古での戦線拡大に作戦本部長として、中央の統制に服するよう説得に出かけたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱えたが、当時関東軍参謀長東條英機ら陸軍中枢と対立し、1937年9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から関東軍に参謀副長として左遷された。 1940年に満洲国から贈られた勲記1937年9月に関東軍参謀副長を任命されて10月には新京に着任する。翌年の春から参謀長の東条英機と満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東条の不仲は決定的なものになっていった。石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東条を「東条上等兵」と呼んで馬鹿にした。一方東条も石原としばしば対立し、特に石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。1938年に参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官に補せられ、さらに1939年には留守第16師団に着任して師団長に補せられる。しかし太平洋戦争開戦前の1941年3月に現役を退いて予備役へ編入された。これ以降は教育や評論・執筆活動、講演活動などに勤しむこととなる。