- 格付とは?
- 現役を退いた石原は1941年4月に立命館・中川小十郎総長が新設した国防学講座の講師として招待された。日本の知識人が西洋の知識人と比べて軍事学知識が貧弱であり、政治学や経済学を教える大学には軍事学の講座が必要だと考えていた石原は、大学に文部省から圧力があるかもしれないと総長に確認したうえで承諾した。昭和16年の『立命館要覧』によれば国防学が軍人のものだという旧時代的な観念を清算して国民が国防の知識を得ることが急務というのが講座設置の理由であった。さらに国防論、戦争史、国防経済論などの科目と国防学研究所を設置し、この研究所所長に石原が就任して第一次世界大戦史の酒井中将、ナポレオン戦史の伊藤少将、国体学の里見岸雄などがいた。週に1回から2回程度の講義を担当し、たまに乗馬部の学生の課外教育を行い、余暇は読書で過ごした。しかし東条による石原の監視活動が憲兵によって行われており、講義内容から石原宅の訪問客まで逐一憲兵隊本部に報告されている。大学への憲兵と特高警察の圧力が強まったために大学を辞職して講義の後任を里見に任せた。送別会が開かれ、総長等の見送りを受けて京都を去り、帰郷した。 評論・政治活動 太平洋戦争(大東亜戦争)に対しては「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可である旨説いていたが、ついに受け入れられることはなかった。石原の事態打開の策は奇しくも最後通牒と言われるハルノートとほぼ同様の内容であった(戦後石原は太平洋戦争に対しても、サイパンの要塞化、攻勢終末点の確立をすることにより不敗の態勢が可能である旨も語っている)。中国東亜連盟の繆斌を通じ和平の道を探るが、重光葵や米内光政の反対にあい失敗した[7]。 『世界最終戦論』(後、[最終戦争論]と改題)を唱え東亜連盟(日本、満州、中国の政治の独立(朝鮮は自治政府)、経済の一体化、国防の共同化の実現を目指したもの)構想を提案し、戦後の右翼思想にも影響を与える。熱心な日蓮主義者でもあり、最終戦論では戦争を正法流布の戦争ととらえていた事は余り知られていない。最終戦争論とは、戦争自身が進化(戦争形態や武器等)してやがて絶滅する(絶対平和が到来する)という説である。その前提条件としていたのは、核兵器クラスの「一発で都市を壊滅させられる」武器と地球を無着陸で何回も周れるような兵器の存在を想定していた(1910年ごろの着想)。比喩として挙げられているのは織田信長で、鉄砲の存在が、日本を統一に導いたとしている。 石原の評価は現在でも毀誉褒貶相半ばしている。 戦後の活動 1945年頃の石原莞爾東條との対立が有利に働き、極東国際軍事裁判においては戦犯の指名から外れた。戦後は東亜連盟を指導しながらマッカーサーやトルーマンらを批判。また、戦前の主張の日米間で行われるとした「最終戦争論」を修正し、日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきだと主張した。 実生活においては自ら政治や軍事の一線に関わることはなく、庄内の「西山農場」にて同志と共同生活を送った。 東亜連盟は日本人のみならず、中国人や朝鮮人からも多くの支持者がおり、東亜連盟等を通じて石原莞爾に師事したものに 牛島辰熊(全日本2連覇の柔道家、木村政彦の師匠) 大山倍達(極真会館の創設者) 武田邦太郎(農政と平和研究所所長、参議院議員) 橘撲(ジャーナリスト・中国研究家、中国社会研究の先駆者) 曹寧柱(在日本大韓民国民団会長、剛柔流空手道師範) 木村武雄(政治家、建設大臣) 小澤開作(歯科医師、指揮者小澤征爾の父、ミュージシャン小沢健二の祖父) 辻政信(陸軍参謀、参議院議員) 等がいる。 元衆議院議員のFX 、その息子で現衆議院議員の加藤紘一は親戚にあたる。 エピソード 幼少の頃からその秀才と奇抜な行動がエピソードとして残っている。[8] 1895年、子守のため姉二人が石原を学校に連れて行ったところ教室で暴れた。矢口校長が石原に試験をやらせてみると1年生では1番の成績であったため、1年間自宅で準備学習していたという名目で同年に2年生に編入することとなった。 仙台幼年学校では総員51人中最高の成績であり、代数学・植物学・ドイツ語が特に高得点であり、三年間第二位を大きく引き離して一番の成績を維持した。 当時、将校には写生の技能が必要であり、授業があった。同期生一同がこれに困っていると、石原は自分の男根を写生し、「便所ニテ毎週ノ題材ニ苦シミ我ガ宝ヲ写生ス」と記して提出し、物議を醸して石原退学まで検討された。この時は校長が石原の才能を惜しんで身柄を一時預かるということで一応解決した。 石原は学校の勉強よりも戦史、政治、哲学などの文献を読み、夏休みも帰省せずに勉強した。これは両親、特に父親との関係が不仲であったことが理由とされている。 陸軍士官学校でも軍事学よりも歴史学や哲学の勉強に励んだ。一方で軍事雑誌をよく読んで興味深い戦術問題が掲載されると答案を送り、次回に示される講評や出題者意見を興味深く読んでいた。 石原は酒やタバコをたしなまなかった。将校団の宴会の席で連隊長から三度飲酒を強要された時に「飲まん」と大声で怒鳴りつけた。以後、連隊長に気に入られることはなかった。 若松連隊にいた頃には銃剣術の教育を激しく行い、訓練を受けた中隊全員が石原に殴られ、上官と意見が衝突して論争した。 第65連隊から一人も陸大に入学した者がおらず不名誉だとして陸士成績が最優秀だった為に石原を受験させることが本人の意思とは関係なく決められた。石原はこれを断ったが、連隊長命令によって受験させられることになった。しかし石原は一日中部隊勤務に励んでおり、同僚はいつ勉強しているのかと不安に思っていた。 石原はどうせ受からないのだから勉強は日経225 だとして試験期間に入ってからも一切勉強しなかった。5日間の試験期間中も試験の解答をさっさと提出して勉強せずに受験会場となった駐屯地の部隊の訓練を見学した。しかし連隊からは石原だけが合格した。 陸大入試の口頭試問で「機関銃の有効な使用法」を聞かれ、「飛行機に装備して敵の縦隊を射撃する」と解答した。更にその詳細については黒板に図を書いて「酔っぱらいが歩きながら小便をするように連続射撃する」と答えた。当時、機関銃を飛行機に装備する着想はまだなかった。 陸大では他兵科の運用についても学習するため夏休みには他兵科部隊勤務が実施された。その一環で砲車を車庫から出してこれを編成して行軍し、陣地に侵入するために砲列で射撃し、また車庫に収めるまでの行動を一人ずつ試験された。学生は複雑な号令で指揮することになる。ところが最後の番であった石原は指揮官の定位置について指揮刀を抜刀し、「いつも通りにやれ」と命令した。 陸大学生時代は成績は本来は首席であったが、何らかの都合で点数が変更されたため2位であった。これについては冬でも薄汚れた夏服を着用する石原を天皇の前で講演させることに抵抗があったたと言う説や、石原の講演内容について大学の注文を石原が拒否したためと言う説、朝敵であった庄内藩出身であったためと言う説があり、明らかではない。 ドイツ滞在中は、どこに行くのも羽織袴で押し通した。また、当時ドイツ国内でも「誰も見向きもしない」と評されたライカのカメラを購入し愛用していた。 石原はその奇行が面白おかしく脚色されることもあったが、とは言え相当な変わり者であったことも確かで、東條英機の副官を務めた西浦進(陸士34期)は「石原さんはとにかく何でもかんでも反抗するし、投書ばかりしているし、何といっても無礼な下戸だった。軍人のくせに酒を飲まずに周りを冷たい眼で見ている、だから嫌われるのも当然だ」と評した[9]。 歩兵第4連隊(第2師団所属。本拠地は仙台)長に就任すると、貧しい外国為替 の兵が満期除隊後に生活の一助となるよう、厩舎でアンゴラウサギの飼育を教え、除隊する兵にお土産として持たせた。また内務班の私的制裁を撲滅するために、同じ出身地同士の兵を中隊に集めた。連隊長自身が、兵食を食べて食事内容と味の向上を図り、浴場に循環式の洗浄装置を設置して清潔なお湯を供給し、酒保を改善するなど、兵士の生活改善に尽力したと言われる。 聨隊長時代、二年兵が外国為替証拠金取引 を迎えるのを見送っていた。羽織袴姿で並ぶ満期兵を前にして、かつての中隊長が長々と訓示をしている。突然、にわか雨が降ってきても、中隊長は訓示を止めない。そのとき、石原は「中隊長のバカヤロー、紋付きは借り物であるぞ!」と怒鳴った。 また演習に際しては、兵士達が農地を踏み荒らさないように、畦道を一列にして突撃させた。それを咎めた検閲官が、「こんな馬鹿な突撃があるか、連隊長の決心いかん?」と問うと、石原は「連隊長戦死!」と叫んで、路上にひっくり返ったという。